昭和42年07月21日 朝の御理解



 骨折り損のくたびれ儲けと申しますね、骨折り損のくたびれ儲け、けれども信心においては、そう云う事は無いと思う。骨折れば骨折るだけ心を神様に向けてくれば、ひと足でも無駄にはさせんと仰るので御座いますから。ただそれが骨折り損のように見えておるだけ、実際はそれがどこのはしかについておる、無駄ではない。ところが矢張り現われて来ないと、骨折ったら骨折っただけ現われて来ないと。
 骨折り損のくたびれ儲けの様にあるだけ、ですからその骨折っておると云う事はです、いうなら神様が認めて下さる骨折りでなからにゃ出けない、信心においては骨折り損って云う事は無いと思うと云う事は、神様が見ておって下さる神様が認めて下さると云う事だから損はないのです。けれども形は信心の様でありましてもそれが、いうなら人見せ信心、人に見せる為の骨折れであったりするなら、こういうのは無駄です。
 馬鹿らしい事ですね、人に見せる為の人に分かって貰う為の、いわゆるみかけだけの信心である、それはだから本当の信心じゃない。信心というのはどこまでも、神様と自分の心が神様に向けられておっての骨折れですから、誰か認めてくれよ、認めて貰うて悪いと云う事は無いけれども、認めさせる為にね、人に分かってもらう為にというのだったら信心じゃないです。
 ですから神様に認めて貰う、ですから場合によっては何か知らんこう、縁の下の力持ち的な存在であるような場合は、なんかせいがない様な気のする事もある、けれども神様だけが御承知の世界に、生き抜く事が信心だという風に。心に言い聞かせ又それを思い込んで行く所に、私はほんとに良い信心が出けると思う誰か認めてくれなくても、誰か分かってくれなくても神様はご承知なのだから。
 ここん所の信心をしっかり頂いとかんと、人が認めてくれなければもう腹が立つ、人が喜んで貰えなかったらもうがっかりすると言う様な事になる、所謂骨折り損のくたびれ儲けになる。私は今日はそう言う様なです。神様だけがご承知だから誰か知って貰わんでもと言った様な所謂信心 神様に向かうのはそれですよね、信心とはそういう意味合いに於いての信心なら、私決してくたびれ儲けと言った様な事は無いと云う事。
 骨は氏子がけずれ紙は神が折るとね。扇子の事ですよね扇子ですよね、扇子骨は氏子がけずれ紙は神が折るとこう仰る、そこん所にですいわゆる末広ね末広のおかげを受けられるのです。末広というのは日勝り、月勝り、年勝り、代勝り親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と言う様な、おかげの頂けれる元ですから、皆さんがしっかり私はお参りに、御用に修業に骨折っときなさらにゃいかん。
 しかも折角骨折るならば誰に見せしょとてじゃなくてですね。神様だけがご承知の世界に、生き抜かせて貰えれる信心なんだ、そういう骨を折る骨を削ってね身を削り骨を削ると言った様な事を申しますが、本当に身を削り骨を削りして行く所に神様が、紙は神が折ると仰るそこに私はあいよかけよとこう親の事は子が頼み、子の事は親が頼み頼み合い致せとこう、あいよかけよで立ち行くそこにですね信心の尊さが有るんです。
 信心を抜きにして精進、努力をすると、それは矢張りひとつの実はあがりますね、一生懸命、人が五時間働く所は十時間、人が七時間も八時間も寝る所を、五時間か六時間しか寝らん、骨折っておる、是は信心を抜きにしても、ですから骨折っただけは矢張り、それだけ余分な働きはある、だから財産は残るかも知れん、けれどもね、それが日勝り月勝り、年勝り代勝りにはならん。 
 親の代よりも子の代子の代よりも孫の代と、言う様な事にはならん、そう言う様な事だったら親が一生懸命に、それこそ爪の上に火を灯す様な働きをして、食べるものも食べん様にして働き出した、子供が楽をする、そして孫がヒニンをすると言う様な結果になる、かくように売家とから様にかく三代目、それが普通のいわば通俗な私はあり方であり、通俗な骨折りなのである。
 そういうのを私は、骨折り損のくたびれ儲けだとおもう。成程骨は折った財産は出けたから、いかにも骨折っただけの事はあるかと思うたけれど、その骨を折って貯めたばっかりに、作ってやったばっかりに子供が楽をする、そして孫はヒニンするという中々うがった教句だと思うですね、売家とからようにかく三代目、ま勉強はしとるですよね。親父はいろはのいの字も知らなかったけれども。
 子供達は学校にも行った大学にも行った、まあ横文字じゃろうがからようとは漢字で書くという意味です、漢字で書ける様になったけれども、それは結局は自分の家や、親が残してくれたその家に、売り家という貼り紙を出さなければならない結果になるというのですよ、いかにも目の前には骨折りじゃなかった様にあって、骨折り損所じゃなくて、大変な結果を招く訳でしょうが皆さん、そこで私は思うのです。
 所謂信心しておってもそれがあるんです、それが目先目先のおかげに、終止しておるという様な信心、何十年経っても目先目先の、いわゆるおかげ信心から一歩も外へ出ないという信心では駄目ですよね、いかにもおかげ頂きよる様にあっても、そのおかげがです、子供に孫に伝わっていかない様なおかげであったならば、そこで私はね、神様が認めて下さる。神様の御信用をいよいよ頂かして貰う。
 誰か知らんでもええ、そういう意味合いでの私は骨折りでなからなければならんと思う、そういう骨折りにおいて、私は神様が仰るのは、一歩でも無駄にはさせんと仰るのは、そう言う様な事じゃなかろうかと思う。よくよく皆さん胸に手をおいて考えて御覧なさい、目先目先のおかげを受けておるに致しましても。それが本当に年勝り、代勝りのおかげになって行く様な元である所の信心から生まれておるかどうか。
 そういう骨折りであるかどうか。昨夜も御理解にも矢張り扇子の御理解であったそれは私が、私がここ十いわば七年間ですか、人が何と云うても、いわば笑うても、そしられても悪口を云われても、それが本当だという事は、曲げずにやって来た事です。信心する者は変人になれと、変人にならんと信心は出けんと仰る、だから確かに本当な信心というのは、変人にならなければ出来ないです。
 あちらんもんによかごつ、こちらにもよかごつ、と言った様な信心ではです、本当な信心は生まれない。いわゆる変人にならんと信心は出来んと仰る、変人とは直い事ぞとこう仰る、その直いということがです。昨日頂きます御理解には、扇子の一番上の骨ですよね、大きな骨、こうたたんだ時にあの骨がです、中にしゃんと一本通っとかなければです、是を末広にしてやろうと云うても、末広に出来ない、開かれん。
 神と氏子が別になっとったら、糊が離れておったんでは いうならば神から離れておる信心、信心ほんとの信心ではない信心、いうならば真の信心でない信心、信心はしとっても離れておる、神と離れておる、これでいくらしたっちゃ骨だけしか、むこさん行きませんよ。広がらんでしょう、そこで紙がぴたっとついておって、それを開けば末広になる、そういうその扇子で云うなら要のとこ、肝心要の所。
 肝心要の所が間違っておっては、骨折り損のくたびれ儲けであり、骨折れば、氏子が骨を削れば紙は神が折ってやる、その骨を削ると云う事がですね、人見せ信心ではなくて、本当に神様が見ておって下さるのだから、と信じさして貰えての信心、そういう信心を私は頂いて、そういう信心が筋金になる、おるかどうかと云う事です。信心の根性と言った様な事を最近云われる、信心の根性というのがですね。
 人が何と言っても直いと云う事においてです、これが真直いという開き方、有り方とあったら誰が何と云うても、そこを断固としてやり抜いて行くという、言わば一本しゃんと筋金が通った信心をさして貰う。そういう信心に骨が骨を折らなければだめ、そこに紙は神が折ると仰る、いわゆる氏子も立ち行けば神も助かって行かれる所のおかげ、氏子も立ち行けば神様も助かって下さるというおかげ。
 私はそのおかげというのは、そういうおかげじゃなからなければ、本当のおかげじゃないと、お道の信心で云う神も助かり氏子も立ち行くという、そういうおかげを頂いていってこそ、初めて私は年勝りのおかげ、代勝りのおかげ、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と末広のおかげが受けて行かれる信心、目出度目出度の若松様よ、枝も栄える葉も茂るというではないかと。
 生神金光大神は家繁昌、子孫繁昌の道を教えるのじゃ、そういう道を教えて下さるのです金光様は、所が金光様の教えて下さる道を行じずに、見てくれの道を歩いたんでは、それは良くおかげは受けるかも知れん、それは信心が無くても一生懸命、精進努力すりゃ金が残るのですからね。立派な家も、出けて行くのですから、けれどもそれはです、三代目はからようにかく様になるのであり。
 三代目には貧乏にならなけと、言った様な元を親が作る様なもの、そりゃ信心して頂いとってもあるんですよ、そりゃもう私が知っておるだけで随分あるんですよ。皆さんも、ご承知の様にと思うんですけども、久留米の先代がおられる時なんかは、そりゃほんとに大したおかげを受けた人達が、私が知っとるだけでも随分有りましたよ、通町の卸問屋街なんかは、例えば光橋先生とこなんかそうでしたよ。
 あの通街の卸屋街はもう、いうなら殆どしんけん、こんけんの置屋さんなんかは、殆どお引き寄せ頂いたんです櫛原にね。けれどもほんなら現在見て御覧なさい。まあだ百年も経たないね、何十年間の後には、いうならその中には影もほろけもなかごたっとが、いくらもあると云う事ですよ、おかげ受けたんですもの確かにね、ですからいかにですね、骨折る、骨折るならばいわゆる骨折りがいのある骨折り。
 それは神様がご承知である、神様だけがご承知だという信心、そういう信心をですね、私は身に付け、だからそういう意味合いでならですね、矢張り一生懸命信心しござったばってん、あれは骨折り損の信心じゃったちこつになる、して結局は何も残らない、骨折り損のくたびれ儲け、信心においてはそう云う事は決してない、一歩でも無駄はさせんとおっしゃるのだから。
 けどそれは何処迄も信心でなからにゃならないと云う事、只神様に参りよるから信心ち云うのじゃない、信心というのは何処迄も、愈々真心を打ち出しての信心、愈々神様を信じきっての、所謂神様が見て御座るからと言った様な信心、信ずる心の信心、信心とは愈々自分の心が神に向かうて行くという神心になって行くという信心。そういう信心でなからなければ矢張り骨折り損になると云う事ね。
 どうぞ骨は氏子が削れと仰るやっぱ、安気安穏では骨は折っとらん訳です。昨日三回目のハガキが参りましたけれども、鳥栖の上野さん、いわゆる学生新聞の願いを、まいうなら編集長的存在ですね、あの中心になって御用頂いとります上野さんが、自転車で御本部参拝を致しとります、昨日一昨日ですかね、昨日一昨日ですかね、あちらへ到着のおかげを頂いとります、予定よりも一晩早く、朝着いとります。
 若先生が宿の心配をしとかにゃならんというので、控所に電話をかけました。ところがあの昨夜着かれました、ちょうど今お広前にお礼に出とられますと、宿の人が云うた、昨日ハガキを見てみますと、もう本当に、道中でも大変におかげを頂いとるね、御本部から奈良の方へ、自分の心安い家があるから、行く積りであれから汽車で行って、又帰りは汽車で帰って来て。
 又御本部から自転車で、帰って来たいという願いを持っておったんですけども、どういう考え方が変わったのか知りませんけれども、もう自分の私用的なものは、もう取り止めましたと、そして早速又自転車で帰らして頂きますから、もう途中まで来とる事で御座いましょう、もうとても若い時でなからなきゃ、出来るこっちゃない修業で御座いますよね。もうそれこそ行く手に、どの様な障害があろうともですね。
 神様が必ずお引き寄せ下さる、必ずおかげ下さるという、一つの信念を持っての行き方でなからなければ出来るこっちゃない、唯遊び半分では出来るこっちゃない、言わば行を敢行した訳で御座いますが、本当にお互いがですね、あの修業をさせて頂く時でなからなければ出来るこっちゃ御座いません。ですからほんとにお互いが、修業をせまられておる事が御座いますでしょうが。いろんな意味で修業を、言わばせまられておる。だからそういう修業をです。
 誰か知らんでもえゝ、神様だけがご承知の世界に生き抜かせて頂く、修業さして貰うというそういう純粋な信心を真の信心だと、こう思うんですそこからいわゆる信心真心、心神が育って行くのですどうぞそういう意味合いでの、一つお互いですね骨を折らせて頂かななりません。そういう意味合いで神様から紙を折って頂かななりません。そこに神も助かり氏子も立ち行く、神様も喜んで頂けれる私共も心から有難い勿体ないと、喜べれるおかげを頂いて行かなければならないと思うです。
   どうぞ